FAZER LOGIN窓ひとつない密閉された部屋に、重たく湿った衣擦れの音が響く。
歩くたびに足元でシュ、シュ、と鳴る乾いた摩擦音は、まるで降り積もった枯れ葉の上を踏みしめているようで、背筋が寒くなった。「……うん、やっぱり素敵だよ。莉子ちゃん」 神宮寺蒼が、ほう、と熱っぽい息を吐き出す。 眼鏡の奥で細められた瞳は、私を見ているようでいて、どこか透き通って焦点が合っていない。彼が見ているのは生身の私ではなく、自分が丹精込めて作り上げた『作品』としての私なのだと肌で感じる。 壁に掛けられた鏡の中に、見知らぬ女が映っていた。 顔色は土気色で、吐き気をこらえるように口元を引き結んでいる。 身にまとっているのは、ウェディングドレスだ。けれど、それは花嫁が袖を通すような真新しい純白ではない。幾重にも重なったレースは黄ばみ、裾のあたりには洗っても落ちなかったらしい茶色い染みが点々とこびりついている。 鼻を突くのは、饐えたような防虫剤の臭気と、長い時間を経た布特有の埃っぽい匂い。息を吸うたび「いい加減にしてくれ。……僕の忍耐にも限界がある」 彼は私の腕を掴み、強引に引き寄せた。冷たい指が肉に食い込む。反対の手で私の顎を強く押さえつけ、無理やり口を開かせようとする。「んぐっ……! やめ……っ!」「飲み込め! 昔みたいな、僕の莉子ちゃんに戻るんだ!」 小瓶が唇に押し当てられる。冷たいガラスの感触。液体がこぼれ、頬を伝う。 その時、ふと脳裏に浮かんだのは、征也の顔だった。『お前は俺のものだ』 あの傲慢で、強引で、でも誰よりも私を求めてくれた男の顔。 彼はいつだって、正面から私にぶつかってきた。傷つけ、傷つきながら、それでも私という人間を見ていた。 それに比べて、目の前のこの男はどうだ。 薬を使って眠らせ、こっそりと排除しようとする。自分の手を汚さず、綺麗なままでいようとする。 なんて卑怯で、なんて小さな男なんだろう。 恐怖が、ふっと消えた。 代わりに湧き上がってきたのは、氷のように冷たく、そして鋭い怒りだった。 私は蒼の手首を掴み、渾身の力で押し返した。不意をつかれた彼は、バランスを崩してよろめく。「……っ!」 小瓶が手から滑り落ち、床で割れた。中の液体が飛散し、カーペットに染み込んでいく。「あ……」 蒼は呆然と床を見つめ、それからゆっくりと顔を上げた。その目は、怒りで血走っていた。「……何をしたか、分かっているのかい?」 低い声。彼は拳を握りしめ、震えていた。「せっかく、苦しまないようにしてあげたのに。……そんなに痛い目を見たいのか?」 彼は私に掴みかかろうとした。 でも、私は逃げなかった。ベッドの上に立ち上がり、彼を見下ろした。 その瞬間、私の中に何かが降りてきた気がした。それは、かつて私を支配し、そして愛してくれた男の魂だ。私は背筋を伸ばし、顎を上げて、冷ややかに彼を見据
嵐の気配が遠ざかり、部屋には重く澱んだ静寂だけが残った。 窓の外はまだ薄暗い。夜明けにはまだ間があるはずだ。私はベッドの隅で膝を抱え、自分のお腹をかばうように身体を丸める。 ここには、小さな命がある。 征也との間に生まれた、たったひとつの希望。でもその灯火は今、風前の灯火のように頼りなく揺らいでいた。 ガチャリ。 無機質な金属音がして、ドアが開く。 入ってきたのは神宮寺蒼だった。手には銀のトレイを持っている。その上には水の入ったグラスと、小さなガラスの小瓶が置かれていた。「……莉子ちゃん」 彼は甘く、優しい声で私の名前を呼ぶ。 まるで、愛しい恋人に語りかけるように。 でも、その目は笑っていない。眼鏡の奥にあるのは、冷え切った執着と、目的を遂行しようとする機械的な意思だけだ。「明日の手術まで待とうと思ったんだけどね……やっぱり、早いほうがいい」 彼はトレイをサイドテーブルに置き、小瓶を手に取る。中には透明な液体が入っていた。「手術は体に負担がかかるからね。……薬の方が、君のためにもなると思って」「……なに、それ」 震える声で尋ねる。答えなんて分かっているのに。「綺麗になるための薬だよ」 蒼はにっこりと微笑んだ。「これを飲めば、君の中の『汚れ』は流れて消える。……痛みもほとんどないはずだ。眠っている間に、全部終わるよ」 堕胎薬。 彼は本気だ。私のお腹の子を、ただの汚物として処理しようとしている。「……嫌」 私はベッドから後ずさり、壁に背中を押し付けた。「絶対に嫌。……飲まない」「駄々をこねないでくれ。君のためなんだ」 蒼が一歩近づく。その手には、まだ封を切られていない小瓶が握られている。「君だって、あんな男の子供なんて産みたくないだろう? 父親を殺した男の種だよ?
「……え?」「この別荘の周りには、僕の私兵を配置してある。……武装したプロたちだ。もし天道がのこのこ現れたら、蜂の巣にしてやるよ」 蒼は狂ったように笑った。「君の目の前で、愛する男が肉塊に変わるのを見れば……君も少しは大人しくなるかな?」「やめて……! お願い、彼には手を出さないで!」「遅いよ。……もう賽は投げられたんだ」 蒼は窓の方を指差した。「聞こえるだろう? ……雨の音が」 激しい雨音。風の唸り。 窓の外では、嵐が世界を飲み込もうとしていた。「この嵐の中、彼は必死に君を探しているはずだ。……哀れな獣だね。罠があるとも知らずに」 蒼は部屋を出て行こうとした。私は床を這って追いかけ、彼のガウンの裾にしがみついた。「お願い! やめて! 私が悪かったから……言うことを聞くから! だから征也くんだけは……!」「……もう手遅れだよ」 蒼は冷たく私を見下ろし、足を振り払った。「明日の朝、手術が終わったら……君に新しい首輪をつけてあげる。……僕だけの、永遠の首輪をね」 バタン。 ドアが閉められ、鍵がかかる音が響く。私は床に突っ伏して、声を上げて泣いた。「うあぁぁぁぁ……ッ!!」 ごめんなさい。ごめんなさい、征也。ごめんなさい、私の赤ちゃん。 私のせいで。私が馬鹿だったせいで、あなたを死なせてしまうかもしれない。 悔やんでも悔やみきれない。恐怖で体が震え、涙で息ができなくなるほど泣きじゃくった。 どれくらい、そうしていただろう。 嵐の音だけが響く部屋で、涙も枯れ果て、ただ床の冷たさだけが肌に沁みてくる。 指一本動かす気力もない。この
世界が、反転した。 征也の冷たい態度。『俺がやったことに、なっているのか』という、あの日の自嘲気味な呟き。『俺を人殺しだと思って生きろ』という、突き放すような言葉。 あれは全部、私を守るための嘘だったんだ。 私に真実を知らせて傷つけないために。私が信じていた幼馴染の裏切りを知って絶望しないように、自ら悪役を引き受けて、泥をかぶっていたんだ。(……なんてこと) 私は、何てことをしてしまったんだろう。 命がけで私を守ってくれた彼に、「人殺し」「汚い」「触らないで」と罵声を浴びせてしまった。一番傷ついている彼の心に、さらに深い傷を負わせてしまった。「……あ、あぁ……」 後悔と絶望で、胸が張り裂けそうになる。 征也。ごめんなさい。 あなたは、ずっと私を守ってくれていたのに。不器用で、言葉足らずで、でも誰よりも深く、私を愛してくれていたのに。「ようやく分かったかい? 莉子ちゃん」 蒼が、私の頬を伝う涙を冷たい指で拭った。「彼は君には相応しくないんだよ。……だって、君を守りきれなかった『敗北者』なんだから」「違う……!」 私は叫んだ。喉が裂けそうになっても構わなかった。「彼は負けてない! ……私が、愚かだっただけよ! 彼を信じてあげられなかった、私が弱かっただけ!」「まだ彼を庇うのかい?」 蒼の顔から、表情がすっと消える。 残ったのは、爬虫類のような冷たい嫉妬と、濁った殺意だけ。「いい加減に目を覚ましなさい。……彼はもう来ない。君は一生、僕の檻の中で暮らすんだ」「来るわ!」 私は言い返した。涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、彼を睨みつける。「彼は来る。……絶対に、私を迎えに来る!」「……根拠は?」「愛してるからよ!」
「……あなたが?」「そうさ。経営不振に見せかけた、計画的な倒産だ」 彼は私の乱れた髪を指で弄びながら、淡々と続けた。まるで、昨日の天気の話でもするように。「でもね、計算外のことが起きたんだ。……ハイエナが一匹、嗅ぎつけてきた」「……ハイエナ?」「天道征也だよ」 蒼の整った顔が、憎々しげに歪む。「あいつは、僕の計画に気づいたんだ。……当時まだ学生で、金も力もなかったくせに、必死になって君の家を守ろうとした」「え……?」「あいつは自分の全財産を投げ打って、さらに怪しげな筋から借金までして、月島の債権を買い集めたんだ。……僕たち銀行団に渡らないようにね」 心臓が、早鐘を打つ。 書斎の金庫にあった書類。『譲受人:天道征也』の日付。 あれは、会社を乗っ取るためじゃなかったの?「彼はね、君のお父さんに提案したんだ。『会社を立て直すまで、俺が債権を預かります。経営権はそのままにして、一緒に再建しましょう』って」 再建。 金庫の奥に残されていた、もう一冊のファイル。『月島ホールディングス再建計画書』。 あの時、私は怒りに任せて中身を見ようともしなかった。「……じゃあ、征也くんは……助けようとしてくれていたの?」「そうだよ。馬鹿な男だよね。……何の得にもならないのに、ただ君の笑顔を守りたい一心で、泥舟を支えようとしたんだ」 涙が、じわりと視界を滲ませた。 知らなかった。何も知らなかった。 彼があの頃、どんな思いで私の家の事情に関わっていたのか。私に向けられたあの冷たい言葉の裏に、どれほどの熱が隠されていたのか。「でも、無駄だった」 蒼が冷たく言い放つ。「僕が手を回して、再建計画を妨害したからね。……物流を止め、取引先を脅
腹を抱え、涙が出るほど楽しそうに。狂気じみた高い笑い声が、狭い部屋の壁に反響して耳を劈く。「ああ、傑作だ。……天道もご苦労なことだねえ。あれだけ汚れ役を被って、泥をかぶって君を守ったのに、肝心の君には『何もしてくれなかった』なんて思われているんだから」「……どういう、こと?」 笑いが止まり、蒼が真顔に戻る。 眼鏡の奥の瞳は、深淵のように暗く、光を吸い込んでいる。「教えてあげようか、莉子ちゃん。……本当の『真実』を」 彼はガウンのポケットから、一枚のICレコーダーを取り出した。黒くて小さな機械。それが、開けてはならないパンドラの箱だとは知らずに、私はただ見つめていた。「これを聞けばわかるよ。……誰が君の家を壊し、誰が君を守ろうとしたのか」 蒼が再生ボタンを押した。 ザザッ……という乾いたノイズの後、男たちの話し声が聞こえてきた。もう何年も前の、古い録音データのようだ。『……おい、神宮寺。本当にやるのか? 月島をつぶすなんて』 聞いたことのない、若い男の声だ。『当たり前だろう。あそこの技術は魅力的だが、経営陣が無能すぎる。……今のうちに債権を買い叩いて、バラバラにして売り払えば、莫大な利益になる』 その声を聞いた瞬間、私の全身の血が凍りついた。 若くて、少し高い、冷酷な響き。 間違いようがない。神宮寺蒼の声だ。『でも、娘がいるんだろう? お前の幼馴染の』『莉子ちゃん? ああ、可愛いよね。……だからこそだよ。彼女がお姫様のままじゃ、僕の手には入らない』 レコーダーの中の蒼が、くすくすと笑う。今の彼と同じ、湿った笑い声。『家を失い、親を失い、路頭に迷ってボロボロになったところを……僕が拾ってあげるんだ。そうすれば、彼女は一生僕に感謝して、僕だけのものになるだろう?』『…







